【自分を縛り付けるルール】は、苦しい。
はじめのうちは、
これ以上自分が傷付かないように、
誰かを傷つけないようにと、
大切な存在を守るために
必死に編み出した、
苦肉の策だったのかも知れない。
だけど、
そのルールが必要なくなったはずの今でも
なぜか苦しい・幸せじゃないと感じるのは、
いまだに
昔作ったルールにとらわれているから
なのかも知れません。
*
私の場合は、
姉のようにできなきゃ存在してはいけない、とか
(できないから苦しいわけだけど)
人を嫌う感情を抱いてはいけない、とか。
祖母は決して私をいじめようとか
ないがしろにしようとか、
そんなつもりはなく、
祖母なりに私を大事にしようと
してくれていたのはわかる。
私が枠にはまるタイプの子どもじゃなかったので、
それだけ周りが手を焼いていて、
強めにコントロールせざるを得なかった、
私が気付かない所で骨を折ってくれていた、
私の将来を案じるあまりについ…、
って、自分が親になった今なら思える。
私の未熟さゆえに
思い込み、勘違い、理解不足もあっただろう。
ただ、
当時の私は鉛の中にいて息をするのがやっとで、
そんな風に考える余裕はなかった。
*
そうなったのは誰のせいとか何が悪いとか、
そういうことを言いたいんじゃなく。
『私はこういう環境に生まれて、
こういう経験や感情を味わった』
っていうことを、
『そういうもの』として肯定しておきたいと思う。
私の【自分を縛り付けるルール】は、
こういう流れの中で醸成されて
いったんだな、と。
こういう出来事があり、当時の私はこう解釈した、
ただそういうことがあったということ。
そういう風に丸ごと自分の中に取り込んでいく。
そしたら、これから先は
そのルールのさじ加減を
自分で調節していけばいい。
*
私よりも、
もっと壮絶で過酷な経験をしてきた人が
世の中には山ほどいるのも知っている。
だから、
しんどいなんて思っちゃいけない、って
本気で思っていたけど、
イヤだ
息苦しい
悔しい
寂しい
なぜこんな扱いをされるのかわからない
居場所が欲しい
存在を受け入れてほしい
戦争・飢餓・災害・病気のニュースを見るたびに、「生き長らえるべきは私じゃなくてこの子だ」と思う
子どもの私がそういう気持ちを抱えながら
生きてきたことは本当で、
他の誰かのほうがもっと苦しいはずだから
自分の我慢が足りないだけ、とか
自分は甘い人間だからそう思うんだとか、
そういう考えはもう捨てる。
だって、
苦しかったんだもん。
それは本当なんだもん。
その点だけは、自分で自分を下げない。
人が経験し、味わった感情に優劣はない。
「我ながらよくやった」と褒めてあげる。
そして、祖母だけでなく、
家族一人ひとりのことや、
この家庭環境自体に対して、
良いこともあった、
恵まれていることもあったと、
違う側面で捉え直してみると、
今まで与えられてきたものにも気が付いて、
あぁ、私は生かされてきたんだな
と、畏敬の念も湧いてくる。
はじめからからそう考えることができていれば…
という過去の自分の未熟さを責める気持ちが
湧いてきそうになるけれど、
あの時を必死に生きていた自分を
私は知っているから、
それはそれで良し。
それに、
頭で考えているだけでは気付けなかった。
カウンセリングでも、お恨み帳でも、
とにかく出したほうがいいとよく言われる。
話すは、放す・離すと言われているくらい、大事。
誰かに聞いてもらったり、
自分で「うんうん」と聞いてあげたり。
そうやって、
余計な感情を削ぎ落としたあとに残るのが、愛。
それが核心の部分。
純粋な「私」の姿。
核心を掴んで初めて、
自分で自分を満たすことの
本当の意味がわかる。
負の感情が、
感謝や愛へと転換する
そのダイナミズムを存分に味わうこと。
そこに、生きる醍醐味がある。
*
ただ、
話すにはそれに直面する勇気が必要で、
心の準備ができていないことは、話せない。
言葉にならない。
そういうのも全部まとめて、
今はそれでもいいと肯定しながら、
でも、いつか自分と向き合えるようになることを
心の片隅に置きながら
今という時間を生きていけたらいいと思う。
もし自分の中に【自分を縛り付けるルール】が
あることに気がついたら、
純粋な本当の自分と出会えるチャンス。
どんな感情を感じることも
自分にゆるしながら
1つずつほぐしていこう。
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