【お悩み相談】親が入っていた宗教の教えに縛られている

子どもは、自分が今いる世界しか知らないので、
大人から与えられるものの是非を
吟味する余地はなく、
単純に純粋に「そういうものだ」と吸収します。
そうしないと生きていけないから仕方ないのです。

やがて成長し世界が広がることにより
自らの置かれてきた環境に疑問を抱いた時、
私たちが目指したいことは、
過去との完全な決別というよりも、
それらが自分の人生に対して
訴えかけてくるものを見つめ、
その過去をもう一度自分の中に
自分軸で位置づけ直すことです。

**********

 

Haruna
はるな

こんにちは^^
ずっと一人で頑張ってきたアナタを幸せに導く、
慢性肩こりの声を聴くセラピスト兼タロットカウンセラーのはるなです^^。

 

今日も『ココロノマルシェ』に回答します。

※『ココロノマルシェ』
心理カウンセラー根裕幸本師匠の
お弟子さんたちが回答する、
無料オンラインカウンセリングです。
誰でも無料でご利用いただけます。

では、ご相談にまいりましょう。
以下は、今回のご相談文の引用です。

親が入っていた宗教の教えに縛られている

ご相談者 長野のYさん

はじめまして。

私は生まれた時から、ある宗教に入っています。
親が信仰しています。

その宗教では、「人のために尽くしなさい」
「宗教活動をすると幸せになるから頑張りなさい」等
色々な教えを小さい頃から学び

“自分ではなく、人のために”とずっと言われてきて
いつからか、“宗教活動以外の行動をするとき”や“自分のために”何かをすることに
罪悪感が付き纏うようになりました。

大人になって宗教団体から離れた今も
「誰かのために頑張らなきゃいけない」気がして、
「自分のために行動することは罪」のような気がして
「誰のためにもならない個人的な行動には意味がない」ような気がして
重苦しい気持ちでいることが多いです。

また、幼い頃から
「この宗教を捨てると罰を受ける」と
言われて育ったため、いつか悪いことが起こるのではないか…などと考えてしまいます。
宗教を捨てても罰を受けることはないと、誰かに言って欲しいです。

何の後ろめたさを感じずに、
自分のことを心から楽しんで、
宗教を捨てたことの罰があるかも…と、
怯えない生活を送るにはどうしたら良いと思いますか?

こんな相談で、申し訳ないのですが
少しでも、ひとことでも良いので、なにかアドバイスやご助言を頂けたらありがたいです。

どうかよろしくお願いします。

ココロノマルシェより

 

ここから回答になります。

Yさん、はじめまして。
根本師匠の弟子の一人のはるなと申します。
ココロノマルシェへのご相談、
ありがとうございました。

私、長らくお弟子活動をお休みしていたもので、
「誰よ?!」と驚かれたかも知れませんね。
全然メジャーじゃない人間が回答しちゃって
ごめんなさいね💦💦💦

(これからたくさん回答していきたいと
思っているので、みなさん、どうぞよろしく)

簡単に自己紹介をしますね。

私は、何かの宗教に入信しているわけでは
ありませんが、
実家のもともとの家が、
1200年以上続く世界遺産のお寺の前にあり、
仏教行事が盛んな家に育ちました。
夫からは「お寺の子かと思ってた」と
言われてました。
違いますけどね。両親とも教員です。
まぁそれはそれで大変でしたけどね(笑)

で、高校では一転して、
カトリックのミッションスクール。

大人になってからは、ふと思い立って
ダライ・ラマ法王の法話を聞きに行ったり、
修験道の修行で滝に打たれたり。
スピリチュアルも大好き。
去年から御朱印集めも始めました。

こんな感じでかなり”ごった煮感”はありますが、
「宗教って何だろう?」を人生を通して
触れてきた部分がけっこうあると思います。

いわゆる「宗教2世」と呼ばれる方たちの
独特の大変さや苦労は未経験ですが、

自分のことを心から楽しんで、
宗教を捨てたことの罰があるかも…と、
怯えない生活を送るにはどうしたら良いと思いますか?

という問いに対して、
私なりに考えてみたいと思います。
よろしければ読んでみてください。

あ、そうそう。
どうでもいいことなんですけど、
「長野のYさん」というのは、
長野県にお住まいの方なんでしょうかね。
私、長野県が大好きなんです。
旅先はほぼほぼ長野県です。
山と温泉が最高。
ちょっと前に御嶽山と諏訪湖に行きました。
まぁ、どうでもいいことなんですけど。

「世の為、人の為」という呪縛

これ、私も同じ悩みをずっと抱えていました。

宗教ではないんですけど、小さい頃から、
とある社会教育団体に所属してまして。

小学校低学年から
世界平和とか、難民とか
児童労働とか、環境問題とか、
そういう情報に晒されてきました。

恵まれない子どもが地球上にたくさんいて、
今この瞬間も苦しんでいる。
自分は衣食住が満たされた幸せな子どもだから、
その子たちの助けになることをしなければ
と本気で思っていました。

それが「地球市民としての責務」だと
大真面目に信じていたのです。
小学生が、ですよ。

そりゃ正論だし立派なことだけど。

自分なりにしんどいことがあっても、
その子たちのほうが何倍も大変なんだから、
こんなことでつらいと思ってはいけない、
これ以上の幸せを求めてはいけない、と
苦しみを感じる自分を否定し続けてきたし、
自分はぬくぬくと安全な生活を送っていて
申し訳ないとさえ思っていました。

ごく最近まで、
困っている人たちを満足に助けらない私は
なんてダメなやつなんだという罪悪感とか、
自分の幸せを戒めるような考えがあったので、
Yさんが自分のために何かしようとすると
罪悪感を感じるという気持ちが、
なんとなくわかるような気がします。

そんな私の転機は、
知人から言われたある一言でした。

その言葉とは、

人を助けるというのは、
その人と同じ土俵で同じ苦しみを
味わうことではないよ。

というものです。

世の為人の為の行いは、尊いです。
それには異論はありません。

だけど、助けられないからと言って、
同じ苦しみを味わおうとするのは違う。
自分が相手と同じ苦しみの世界に堕ちてしまったら、
助けるべき相手と一緒に沈んでしまうでしょう?
誰も助かりません。

自分がちゃんと安全で幸せな世界にいることが、
相手を安全に助けるには不可欠なんです。

だから、
自分のためになることをするのは、
まったくもって罪ではありません。

結果的に自分の人間性を豊かにし、力を蓄え、
喜びとは・幸せとは何かを実体験として知り、
(この”実体験”というのが重要!)
より多くの人に喜びと幸せを与えるための
土台になるのですから、
むしろやったほうがいいのです。

人は、自分が受け取ったものしか、
人に与えることができないんです。

 

幸せの順番

もうお分かりだと思いますが、
他者の前にまず自分、というのが、
心理学界隈でのセオリーです。

犠牲なき献身こそ真の奉仕

これはナイチンゲールの言葉です。

自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない、
奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である

という意味だそうです。

この”経済的援助”の部分を、
”奉仕する人のエネルギー供給”と読み替えれば、
まず自分が満ちていることが
いかに大事かがよくわかると思います。

身を削って与え続けていれば、
いずれ枯渇しますよね。

だから、
>“自分ではなく、人のために”
という教義は、
大きな視点で捉えればその通りだけれど、
すでに満ち足りてて余裕のある人に対して、
現状に満足せず次のステージへと
意識を広げていくことを促すのが、
本来の目的だったんじゃないかと思うのです。

これは人間の心の発達の順番と同じです。

私の経験も含めて言いますけど、
「自分」のステージが埋まっていないのに、
「世の為、人の為」のステージにいきなり飛ぶから
ちぐはぐ感が出てくるんだと思います。

他人を助けられる人になるためには、
それをちゃんとやり遂げられるように、
自分の長所や才能を伸ばしたり、
財力やエネルギーを貯めたりすることに、
まずきちんと取り組む必要がある。

そんな風に考えてみてはどうでしょうか。

 

宗教を捨てると罰が当たるのか?

【〇〇したら××になる】なんていうのは、
いわゆる恐怖心を利用したコントロールなので
Yさんは真に受ける必要はありません。

ただ、罰は当たるとも当たらないとも、
どちらとも言えます。

理由は簡単で、
「罰が当たるかも…」と思っていると、
何か良くないことが起きた時に、
「やっぱり罰が当たった」
と勝手に関連付けしちゃうでしょう?

でも、本来はまったく無関係の2つの事象を
自分にとって理解しやすいように関連付けして
解釈しようとするということが、
人間の心理にはよくあることだと言われています。

だから何か起きたときに、
別に罰が当たったわけじゃなくても
自動的にそう思ってしまうことは
避けられないような気がするんです。

で、それなら、って開き直れればいいんでしょうけど、
きっと現状のYさんではそれも難しいのからこその
お悩みだと言えるかも知れませんね。

だとすると、
>宗教を捨てたことの罰があるかも…
と書いてくださっていますが、
ここは思い切って【捨ててない】ということに
してしまうのはいかがでしょう。

そして、考え方によっては、
捨てる必要もないかも知れないですし。

ちょっと乱暴な言い方で驚かせてしまったかも
知れませんが、
決してふざけて言っているわけではありません。

その宗教を捨てるのではなく、
【自分なりにその宗教と健康的な距離を保つ】
というスタンスでいくんです。
(行動としての「脱会」に付随する、信者さんたちとの
人間関係上の悩みがまた別にあるかもですけど。)

そもそも
その宗教を完全に捨てること自体が難しいというか、
Yさんは宗教のお家に生まれ育ち、
少なくとも子ども時代は、
宗教活動を素直に頑張る子だったという事実は、
Yさんの人生のかけがえのない一部。

私が、両親ともに教員の家庭に生まれ、
祖母からは、私が女の子だったから家系が絶える
という罪を植え付けられながら
親の顔に泥を塗るようなマネだけはするなと
厳しくしつけられて育ったという過去を
自分でどんなに忌み嫌ったとしても
無かったことにできないのと同じことです。

だから、
宗教のことをYさんがどう思っているかは
別としても、
”その経験を含めての今のYさん”だという風に
ひとまず肯定してみたいと思うのです。

その宗教が
社会的にどんなイメージを持たれているかとか、
そういうことは私はよくわかりませんが、
そのことと、
Yさんという一人の人の価値や存在意義とは無関係。

で、Yさんが大人になった今、
自分の意志でその宗教について考え、
距離を取りたいと思うことができたのは
天地がひっくり返ると言っても過言ではないほど
ものすごく大きな出来事でしょうから、
その思いを原動力にして、
もう一度自分の半生を総括してみることを
私は提案したいと思います。

「この家に生まれ、この環境で育ったこと」について
良かったことや意味があったと思うことは何か。
反対に、これは嫌だった、本当は〇〇と思っていた、
といったことはどんなことだったのか。
その宗教から離れたいと思ったのはなぜか。
そこにYさんのどんな価値観や思いが流れているのか。

こういったことを、
物心ついたころから順に振り返りながら、
”この家に生まれてから大人になるまでの経験”が
Yさんの人生にとってどんな意味を持つのか、
どうしてこの家でなければならなかったのか、
というようなことを考えてもらえたらなぁと思うのです。

そして、
自分のこれからの人生を生きていくにあたって、
取り入れたいことや役立てたいこと、
反対に、
これはもう手放したいと思うことを整理すると、
自分に必要なものを自分で選択し与えることが
できるようになる、

つまり「自由」になるんですね。

そうすることで、
”そういう過去を持つ私”の存在が肯定でき、
そんな私としてこれからどう生きていくのか
今まで培ってきたものをどう使って
社会や他者のために役立てていくか

という、自分の人生に対する主体性が芽生え、
そこから本当の意味での人生の本番が始まるんだろうなと思います。

そうやって自身の宗教活動の経験を咀嚼して、
いらないモノはいらないと言うけれど、
良いと思う部分は自分の中に吸収していけば、
決してその宗教を捨てることにはならないと思うのです。

であれば、捨てていないから罰も当たりません。
やっぱりちょっと乱暴ですかね…?(^^;

だいたい、日本人の国民性がそうですもん。
神道も仏教もキリスト教も土着の神もいます。
そんな風に、それぞれの良いとこどりをするのも、
考え方としてはありなのかも知れません。

結局、宗教であろうとなかろうと、
自分にとって何が幸せなのか?を自問自答し
追求していくこと、つまり、
自分軸で生きることに行き着くんですよね。

宗教を捨てると罰を与えられるのでは、と怯えるのは、
まだYさんがその宗教に心の決定権を支配され
振り回されている状態(=自由がない=他人軸)
に他なりませんから、
自分軸をしっかり作っていくことが、
当面の目標になるのではないかと思います。

 

宗教とは一体何なのか?

宗教とは何か。

幸せになるためとか、
苦しい事を乗り越えるためとか、
救いを求めるためとか、
いろいろな意見があると思います。

私が今回、Yさんに伝えたいと思うのは、
大峯千日回峰行を達成された、
塩沼亮潤 大阿闍梨のお考えです。
(何かのテレビ番組で見たお話です)

善いことをして、悪いことをしない。

それぞれの細かな解釈や視点などの違いは
たくさんあるけれど、
どの宗教・宗派にも共通して言える究極はこれ、
と塩沼さんは仰っていました。
(私の記憶が正しければ💦)

あまりにシンプルにその通りすぎて
私は腰が抜けましたよ(笑)

だけどものすごく奥が深いとも思いました。
だって、その善悪の基準は
自分自身に問われるわけですから。

ってことは、
結局また自分軸の話になるんですけど、
善悪の判断をするためには、やはり自分自身や、
自分の内なる神とつながることが重要で、
そもそも私たちは大いなる神の御心を現すために
人間界に来ているのであって、
自分の行いは神の行いであり、
すなわち自分は神である…などと言う、
スピリチュアルの世界に首を突っ込むはめになり、
マトモな社会生活に支障がでる可能性が
ないとも言えませんので(笑)、

「ひとまず難しいことは置いといて、
こういう路線でいっとけばだいたいOK♪」

みたいな基本的な枠組みを
我々庶民にわかりやすくカタチにしたものが
いわゆる”宗教”っていうものなんだろうなと
思うわけです。

宗教では現世での生き方の指針に加え、
死後の世界についても描写されますが、
ともかく死んだ時に、どんな風に生きたかの
答え合わせをする話がよく出てきますよね。

その時に重要なのは、
どの宗教を信じたかということよりも、
「私は善い行いをしてきた」と
胸を張って言えるかどうかだと思うんです。
だって自分自身=神(まだ言ってる(笑))に
嘘は付けないですからね。

でも肉体を持つ人間の心は弱いしずるいから、
時々、自分の弱い心に負けそうにもなります。

それで簡単に負けちゃわないように、
浄玻璃の鏡にすべてを映し出すとか、
心臓を天秤にかけるとか(エジプトですけど)、
そんな話を活躍させて、
人間が脱線するのを防ごうとしているわけです。

すごくよくできていると思いませんか。

だから生き方に迷いが生じた時、
いつだって私たちは、
「善かどうか。」
シンプルにそれを自分の内側に問いかけながら
自分自身に正直になって生きていけば、
それでいいのではないでしょうか。

 

タロットからのメッセージ

あなたには生命力とエネルギーが
満ち溢れています。
自分の可能性を信じて
人生という大冒険を、
どうか思う存分に楽しんでください!

小アルカナ・ワンドナイト

 

回答は以上になります。
Yさんの幸せをお祈りしています^^

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